昭和51年03月18日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心なること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」

 話を聞いて助かる道と言われる御道の信心によって、まっ色々なことを分からせて貰う。いわば、本当な事を分からせてもらう。天地の道理も段々分からせてもらう。天地の御恩徳を教えて頂いて、改めて成程ご恩恵の中にあるんだなと言う事も分からせてもらう。天地金乃神は昔からある神様ぞ。成程天地悠久の昔から、ありとあらゆる言うなら、いきとしいけるものの上に、恵み続けて下さってある神様。
 それを金光大神の信心によって、初めて天地金乃神様のおかげが受けられるようになった、と言う様な事をこれは御道の信心の、一つの常識として分かって参ります。ね、ですから今まで迂闊にしておった、それこそ水ひとすくいにでも、一粒のお米の上にでもいや目には見えないけれども、日々こうやって呼吸させて頂いておる、この空気の上にまでもう、何から何までの上に有難いお礼を申しあげるような稽古が、先ずなされるんです。ね、金光教の信心の入り口の所です。
 何時までたっても、それを聞いとるだけでですね。それを実行しなかったら駄目です。はあ本当に、ね、昨日の御理解の中に、本気で朝参りをさせて頂こうと。本当にさせて頂くと言う様な一心発起が出来た者の上には、その人のいわば肉体のうえの事。いわゆる健康関連の事はもう、神様が請け負うて下さる。神様がおかげ下さると言う様なあのお話を致しましたですね。だからその「朝じゃなくても、昼から、夜からでん良かでっしょか」と言う人があったんです。後からの質問の時に。
 そら日参という「金光教はあの、お日参りでもそりゃいいけれども、それじゃ神様がうけあいなさらんごたる」ち。成しかちゅうてから「朝の御祈念の時でなからなきゃね。空気が美味しくないもん、」て私は言うた。ね。本当にあのひと吸いひと呼吸の、例えばその空気の美味しさを本当に実感できるのは、朝でなからにゃ出来ん。と言うてまあその問いに対して、そんなふうにお話した事でございますけどもね。
 皆さんこうやって朝参りをして見える時の、本当に朝の新鮮すがすがしさというか、ね。気分の良さこれが成程いわば続くならもう、健康はもう間違いないと言う様な、あの気持ちも自分の心に起きてくると同時に、神様もまたそういう一心発起の氏子の上に、健康の上の事はもう、請け負うたと言うて下さるほどしのものだと言う事なんです。ね、いわゆる神恩がもう、愈々分かる。
 御恩恵が御恩恵として本当に分かる。ね。もうそこん所が信心はせぬでもおかげはやってあるのだけれども、それを御恩恵をご恩恵とも感じきらずに過ごしてきたと言う事。だから先ずはねそう言う所を分からせて貰うて、一切を拝まにゃおられん、一切に感謝しなければおられない。その感謝の合掌がです。先ず信心の御道の信心の始まりです。ね、そしてわけ柄を聞かせて頂くと、成程天地金乃神様は、ね。
 昔からある神ぞ。その天地金乃神様のおかげを頂かなければ、生きとし生けるものは、その御恩恵に浴しなければ、生きてはいけないのだと言う様な事も分かってまいりますから、ね。矢張り金光大神のお取次ぎに感謝しなければおられない。天地金乃神様天地に対する所の、神恩報謝の心もおのずと起こって来ると言う事でございます。成程天地ははやる事もなければ、終わりもないと言う事。ね。
 そこでですそこでそう言う事が、一通り分からせて頂いて、今まで気もつかなかった事の中に、お恵みの中にある事を分からせて貰うて、お礼を申し上げるような心でです。愈々天地日月の心になる事肝要と仰せられますから、所謂、天地日月の心とはと、追求して行く所から、ね。いうなら天地が自由になるというほどしのおかげ。もう天地と一体。天地の親神様と、ね、一緒になれれる。
 いうならば天地の心とでも申しましょうか。いうならば神様のお心を心としての生き方が、これからの、いわば精進と言う事になるのです。だから金光教の信心させて頂く者は、今のような事が分からせて貰い、天地の御恩徳が分かり、天地の、道理が分かり、または、信心はせんでも、おかげはやってあるという、広大な無辺なおかげをおかげと分らせて貰い感じさせて貰う。
 その神恩報謝のその心でです。天地日月の心に成る事肝要。いうならば天地の心神様の心を心としての、生き方を身に付けていこうというのが、いわゆるこれからの信心の、いわば精進なのです。信心の稽古をさせて頂いておりますとか、精進させて頂いておりますと言う事は、どう言う事に精進するのか。どう言う事に向かってなら稽古をして行くのか。所謂私は天地の心を心として行く稽古。それをこう分割して天の心地の心日月の心とこう分けて天地日月の心と教えておられるのでございます。ね、
 そこで日月いわゆる、もう間違いない事この上もない日月の働きと言う様な、実意な心を持って、丁寧な心を持って私共が、天地の心を心として行く稽古をさせて頂かなければならんのです。ね、そこでなら天の心とは、地の心とは苫田言う事でございます。ね。先ずは、今まで私がほんなら申しました様な事がです。果たして身についておるかどうか。やはり、ここん所が、段々身に付いてくるおかげを頂くために、先ずは十年かかるのです。ね。十年の信心が続いたらわれながらわが心を祭れと。ね。
 いうならば四方拝、お正月の事を四方拝と申しますが、ね。もう自分の周辺の一切を拝むという意味なんです。ぐるぐる廻ってから八百万の神々様といって、こう拝む事じゃないです。自分の周囲、周辺の一切を、先ず拝む所からです、ね。御道の信心は始まるのです。ね。人も物も一切のものを自分の周辺のいうならば、出来事も、ね。良い事悪い事一切を拝ませて頂くと言う事が、今皆さんに聞いて頂いた事なんです。ね。
 だからその何故拝まなければならないかと言う事は、道理の上で分かっておるけれども、その拝まなければならない事が、嫌な事やら嫌いな人やら、嫌いな事柄の場合は中々拝めない。ね、そこにですいわゆる心機一転の心の状態を願わせて頂くために、もう最近会合がありますと、みんなもう誰かがその、体験発表をされますけれども、大祓い心行によってもう、もう本当におかげを頂いてきておると言う事を、皆さんが発表されます。本当に今まで拝めなかったものが、拝めれる様になると言う事はです。
 例えば大祓い心行をあげておる、その間にですいわゆる今日の御理解じゃないけれども、ね。天地と一体。ね。神様と一つになる、一つの手立てとしてでも、大祓い心行は素晴らしい事だと言う事が分かります。そういう日々繰り返しさせて頂いておるうちにです。いうならば神の心を心として、神様の前が立ちたくないほどしに有難うなって来る。神様との交流とはこう言う事だろうかと思うほどしの心の状態が開けてくる。
 そういう意味で大祓い心行の徹底と言う事は素晴らしいことです。そういう心が段々開けてまいります所からです。今までもう嫌で嫌でたまらじゃった人が反対に好きになる。もうこの事ばっかりは、もう耳握っとりますと言う様な事が、どうしてこう言う事を自分は忌み、又は嫌いしておっただろうかと言う事になります。このことだけは人間じゃけん、そげな改まりは出来ないと思うておったことがです。
 もう心の中にそういう信心が続けられてるうちに、いつの間にかそれこそ秋永先生じゃないけれども、我情が取れるとか我欲が取れる、そんなこつは親先生あんなこと言うき、出来るはずがないと思うとったものがです。取れてみて自分ながらたまがるごたる。結局、大祓い心行の功徳であろうと、自分でいっておるようにです。自分で自分の心が拝みたいというような心が開けてくるんです。ね。それが出来たり出来なかったり、ならこう十年も続いておるうちに、和賀心が拝めれるようになると言う事であります。
 成程十年間大祓い心行が続いたら、いろんな例えば人間の願いと言った様なものが、確かに、願い以上のおかげになって来る事も分かります。ね。願いが願い通りになるのではなくて、願いが思いもかけない、夢にも思わなかったような願いに進展してくるときにもういやが上にも有難うなって参ります。ね。その一瞬一瞬ではあるけれども、天地日月の心とはこんな心であろうかと例えば、ね。九時なら九時五時なら五時と例えば時間を切って、親子同盟、家族同盟をさせて頂いて、大祓い心行をさせて貰う。
 昨日もでした。一昨日でした。稲垣久留米の稲垣さんがお届けしておられました。九時の御祈念をまあ家族親戚同盟で、必ず上げられる事に成ってるんだそうです。所がテレビを見よったら、えらい面白かったもんだから、ちょっとまあここん所だけを見てからと思うてから見よったら、ご神前のほうからぱちっとそのテレビの所まで響いて来る様なおいさみがあって、もうびっくりしてテレビを消しましたとこう言われる。ね。
 そういう心が日月の心なんです。ね。きちっとだからほかの事は、例えばまだしだごだであっても、御神前に向かう御祈念をさせて貰う、大祓い心行のこれだけ位は、なら十年間日月の心と言う様な心が身に付いてくるのですから、おかげ頂くはずです。ね。こちらが間違いよると、神様のほうが催促なさる。二、三日前も親先生の御祈念が、毎朝の御祈念があの昨日の質問事項の中にもありましたですね、私の夢の中での。
 どうしてあの一時間という時間が、何時もきっちりと決っておるじゃろかと思うたら、親先生がこちら左の端のこう、御祈念をしておられるここん所に、大きな懐中時計を置いて御祈念をなさっておられるところを頂いたと。これは昨日お届けがあっとりました。だからそう言う様な事からでも、私は昨日若先生と話したんですけれども、あの昨日のいうならば合楽の七不思議とでも申しましょうか。みんなが分からない、いろんな事があるわけです。あらどうしてじゃろかと。
 又はそれが反対に、合楽の悪評を買う元にすらなっとるような場合があるわけです。だからそれに対して一つひとつ回答していくその中にです。いうならば朝の御祈念のそういうような事でもです。ね。どうしてそれこそもう、本当にあの一時間の御祈念と言うたり例えばなら、十分間でも自分が目を瞑ってみて十分間じっとこうしといてみてです。さあもう十分間たったろうと思うてみると、まあだ五分しかたっとらん、というようなのが普通です。そんなにあの一時間の御祈念を。
 じっとしかも毎日毎日、願われる事祈られる事は違うというのに、どうしてあんなに、きちっとした事が出来るだろうかと思うたら、いわゆるその御祈念をしてるそこに、大きな懐中時計が置いてあったと。だからこらやっぱりね、そういうふうな御信者さんがたが、そこに回答を出して行かれる様な働きがあっておると言う事、昨日あ一問一答の事なんかは、やっぱりこれははっきりしていくべきだよと。夕べの合楽会に昨日の頂いた事をもう一遍頂き直して皆さんに、一人ひとり回答を。
 私があのみんなに求めた。昨日はあのその事の回答をです研修させて頂きましたら三時間掛りました。もう三時間がもうみんなが、もうあっという間に過ぎたという感じでした。そのようにまあ興味津々たるものがあったわけですね。ね。だからその事を、昨日の合楽会で、所がもうこれは何時も本当に例えば、合楽示現活動とはと。なら天地日月の心とはと。ね。言うならば親先生が言われる、寒天危地というのはどういう意味なのかと、と言った様な事を質問してみますとね。
 それに対する返事というのが、返事というか、説明が中々みんな出来んのに改めて驚くです。皆さんは昨日の事でこう、一問一答なさってみたでしょう自分で。そしてねだからもう難しゅうその、言わんで私がね私がねあの、言うておる事だけが、一番簡潔でしかも適切で、しかも迫力があって、しかもそれならばみんなに感動与えられるほどしの言葉だから、私の言っておる言葉を丸暗記しときなさいと私が言うんです。
 もうここんとこはもう、もう絶えずもう何十回皆さんに、聞いてもらったか分からんでしょうが。ね。例えばどうして大祓い心行と言う様な事が、合楽でなされておるかと。まあ、どうしてといろんな話が出てくるんですけども、その相手に訴えてです。例えばはぁ本当に大祓い心行ちは、そげんも有難いもんだろうかという風に分からせきらんのです。自分だけは分かっておる。だから自分のその事は言うけれども、なら私がいつも説明しておるようには言えないのです。ね。
 創価学会の前会長が、ね。獄窓に繋がれておるときに、十二歳になる自分の子供に書き送ったという手紙。ね。僕の一番一日のうちで暇な時間はいつかと。その事を知らせてくれと。その事を知らせてくれたらお父さんもこちらで、ね。お題目を百篇唱えるのだから、君ももう十二になるからもうそん位の事は出きんことない。お父さんと一緒に同じ時間に、ね。獄窓と獄外にあってもこの御題目を唱えさせて頂いたら、ね。親子の間に交流がないはずは絶対ない。良いねこれは親子同盟だよと言う手紙であった。ね。
 と言うようにです、例えば大祓い心行というものはね、わけは分からんでも良い。それを十篇でも二十篇でも、例えば繰り返し同じ時間に繰り返していきよるうちにです。交流しないはずはない。神様との交流が起こらないはずはない。親子との交流が起こらないはずはない。ね。そういう意味で大祓い心行は、金光教的ではないという先生方も、沢山今はありますけれども、大祓いと言う事が。
 けれどもそれで良いんだと。と例えば言うようにあの私はこれがもう、それこそ皆さんに繰り返し言っとるけん、皆さんもそこんとこだけはもう覚えとりなさるごとあるけれども、覚えとりなさらんでしょうが。私はこの創価学会の本ば読んだときにです。その手紙の一説だけはもう、私はその場で暗記しました。だから何十回話しても、同じ話が出来るわけです。だから覚えよう体得しようという、これが非常に少ないですね。希薄です昨日も私が申しました。
 例えばいうならば合楽の信者として、当然説明が出来なければならない大事な事をです。なら説明を求めても出来ない。それが人に語りかけていくと言った様な事は、なおさら出来んはずだと私は思います。ね。そう言う所をです大事にして、ね。そういう意味でねいうならば、大祓い心行がです時間を切って、しかもそれが日々繰り返される。そういういうならば日月の心と思われる、ね。正確な生き方を身に付けていく。そういう意味で大祓い心行は大変有難い事だという事。
 日月の心もう愈々限りなく美しゅうならせていただこう、ね。天はもうそれこそ無条件にそれこそ降る雨のように限りなく、ね。私共の上に、ね。与えに与え続けておられるのがその麗しの心が天の心だと、ね。どんな事であってもです。生神金光大神様を奉唱しながら、それこそ受けて受けて受け抜かせて頂くと言う事が、ね。大地の心、ね。まっどう言う様な事柄であろうがです。それを黙って受けて行こうという大地のような心。しかも、それはです、大きな大木がある。
 枯葉が落ちる、枯れ枝が落ちる。ああわずらわしいというのではない。それを黙って受けて自分の根肥しにして、根肥しにして行くだけではない。それをまた天に送っていくというほどしのです、働きをするのが大地の心。そういう天の心、地の心をかね合わせて、自分の心のなかにも頂いていこうというのが、天地の心。それが神の心を心として行くというそういう、精進を限りなく続けさせて頂くというのでございます。ね。だから天地日月の心とはと、例えば質問されたときにです。
 たったそれだけの事ですから、皆さん、説明が出来なければいけんのだけれども、いろんなこうまあ上手に言おうとすると、人に訴えないです。ちょいと聞きよったら簡単なごたるなと。ばってんようと考えよったら、大したこっじゃあるのと言う事になってくるんです。ね。それを自分自身が身に付けていくと言う事。ね。ために今日は天地金乃神と言う事は、昔からある神ぞと言う事が、先ず分からなければならない事。
 信心はせんでもおかげはやってあると言われる、そのおかげをおかげと、先ず話を聞いて知らなければいけない。知ったならばそれを本当に本当に、水ひと掬いの上にでも、ね。合掌する心いうならば、四方拝。自分の周囲の一切のものに、拝んでいくという生き方を身に付けて、そこから、始められるのが、天地日月の心であると。まあこうやってお話をして参りますと、ね。
 本気でやろうかという気も起こるし、又は本当、親先生が言われるように、成り行きを愈々大切にし成り行きを尊んでいくと言う事は、こう言う事だと言う事も段々分かってくる。ね。それが有難うなって来る。その有難うなって来るころにです。必ず神様のお試しがございます。昨日も筑前深江の宮崎という先生が、何時も神愛会に出て見えます。もう本当に合楽におかげを頂かれるようになって、教会が生き生きとしてきた。
 青年会が出来てきた、壮年が今もうそれこそ何十年の、もう古い教会ですけれども、ね。そう生き生きとしたものがなかった。それでおかげを頂かれて、段々お若いけれども、まあその有名なその有名ですね。とにかくあの金光大神のあれを、英訳をされると言うくらいですから中々、学問も出来ておられるとです。まあ昨日来て本部中央の事を、色々今まで始めて聞いた様な話を、色々聞かせて頂いたんですけれども、先生も勉強になんなさるが、私も先生とお話をしよると、色々その勉強になる事がございます。
 その先生がです昨日私はあの丁度この、研修に時間にでしたから、もう三時間ぶっ通しで、先生もまあ研修に加わられたわけです。そしたらも五時になったから夕食を一緒にして、そしてお神酒一杯少しその頂き過ぎて、休ませてもらった。たら後にそのお夢を頂いておるのが、その宮崎先生がね立ち上がって昔あの、あすあ今もあるたい、六角の火鉢があるでしょうが。あそこの立ち上がってから、よろよろっとしてから、倒れなすってですね。ここの眉間をもうすっぱりその。
 角で打ち割っとりなさるお夢を頂いたんです。そら早よう医者に行って何針か縫わにゃんごと、その怪我してあるとです。私は夢が覚めてから思うた。はあ合楽ちは有難いとこじゃ、有難い所であると言うて、通うてきよるうちにです、それこそ眉間を打ち割られるような事も、またあろうかと言う事でございます。ね。だからだからそう言う事でですね。例えばあの例えばその、これにはまあ色々昔あのお芝居なんかでねえ、やるでしょうこうこ心配しとると、あの眉間をこう割るでしょうが。
 はっはっとこうあの、ね。あら吹かにゃいかんごたるふうですもんね。ありゃこう手を頭にこうやると血がついとる。そすと、ふって吹くと吹いてね。そのう決まる所がありよるんですね。そこでだから腹を立てたら、もうお仕舞いなんです。ね。もう吹いたぎりでね、あの辛抱させて貰う。そしてそれをなお続けさせて貰うという時に、次に言うなら本懐なら本懐を遂げる事が出来るように。
 本当に先生が一生懸命でああして、合楽にまあ帰依しそしてまあ、教団の大きな動きの中に御用を頂いておられますから、そういう合楽のあり方を、どうでも中央に持っていってもらうような、大きな責務もあろうから、合楽の事を例えば話しでもしたら、ああ。あんたは合楽に参りよるかと言うて、軽蔑軽視されなさるような事があるかも知れん。もしほんなら親教会関係からでは、お前は道を間違えとりゃせんかと言うて、眉間を割られる様な事があられるかも知れん。ね。
 かと言うてそれでへこたれなさる様な事があってはならぬと、まあ後ろ祈念をさせて頂いた事でございますけれどもです。お互いでもそうです。ね。今日申しますように十年もすれば、われとわが心が拝めるようになるような、有り難い、楽しい信心のけいこをしよっても、楽しいことばかりではない。それこそその眉間を打ち割られるような事があってもね、そこから私は這い上がっていけれる、ね。それこそ背なの唐獅子牡丹が泣いてるじゃないけれども、ね。
 それこそ千尋の谷に突き落とされる様な事があっても、そこを這い上がっていくような、私はおかげを頂かなければならない事が、必ずあると言う事です。ね。ここもだから腹の中に入れといて、はあこれこそ神様のお試しであろうと言う様な心の据わった信心をしなければ、例えいうなら日月の心になること肝要と言われてもです。ね。半ばでいうならばくじける様な事があっては、ほんなら、天地が自由になると言われるほどしのおかげにはなって来ないと思うです。ね。
 今日はここ御理解七節をまず基本が出来ておるか。天地の親神様の事が分かっておるか。信心はせんでもおかげはやってあると言う事が、もう本当に分かっておるか。一切を拝む、その姿勢を持って天地日月の心になる事に精進させて貰う。天地日月の心とはこうこうだと分からせて貰うて、愈々信心を進めていくうちに、大祓い心行の徹底を、愈々期していきょるうちにです。愈々天地との交流が、そのひと時ひと時ではあるけれども、感じられるようになってくる。ね。
 そして愈々有難い心が開けてくる。そこで神様が本当に有難いかどうかを試されるような意味でです。言うなら千尋の谷にも、突き落される事もあろうけれども、ね。そこの所をです。私共がしっかり受け止めていく、言うならば信心姿勢が出来て、初めて天地日月の心に向かって精進しておると言う事になるのです。ね。御理解七節をね、そう言う様な、今日皆さんに聞いて頂いた様な風に頂き、ね。そして自分の血に肉にして
   ( 途中切れ )